「喜怒哀楽を常に笑いに変換できるようになられたのはいつ頃からですか?」
今週月曜日、ある学び場で、これまでのキャリアについて思いがけず振り返ってお話しする機会を頂きました。その後、参加した方のおひとりから投げていただいた「問い」です。深くて、深くて、おぼれそうになりながら岩手に向かう新幹線の中で、色々と考えてみたのですが、まとまったようなまとまらないような感じで…ホテルでひとり過ごしながら、お手紙を書くことで、思考をまとめてみることにしました。
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どうやら子どものころから、人を楽しませたいという性分ではあったようです。ご近所さんとのバス旅行でマイクを持ったり、自分の七五三のお祝いの司会をしたり・・・していたと、母から聴いたことがあります。
問いを頂いて、じっくり考えてもみたのですが「常に」笑いに変換できているかどうかは、自分でも怪しいなと思ってます。めそめそすることもあるし、うじうじすることも、結構、あります。
ただ、アナウンサー時代に、自分ではどうにもならないことに対応する中で「笑い転換システム」が身についていったことは確かなことかと思います。生中継の仕事が多かったので、雨風などの自然災害、納得のいかない事件や事故、どのような状況でも、現場に立ち、伝えなくてはならず、自分の力が及ばないことは、受け容れるしかないと思うようになりました。
23歳から5年間「ズームイン!朝!!」という全国放送を担当しましたが、中継前夜、毎回準備に時間がかかって徹夜だったことを、大先輩アナウンサーについついこぼしてしまった時に「お前さんの機嫌なんて、視聴者には全く関係ない」と、一刀両断されたことも大きかったと思います。カメラの向こうで、視聴者の姿は想像するしかありませんでしたが、たとえ「カラ元気」でも、それが人前に立つ責任なんだと自覚するようになりました。
また、入社5年目に、釣りの番組を担当したことも大きく影響したかなと思います。一般の方と同じ船に乗って、釣りを楽しむという番組で、ディレクターのこだわりもあって「予定調和全くなし」のいわば「ドキュメンタリー」。私が船酔いしたり、機嫌が悪くなったりしたら、途端に番組が沈みますので(笑)、そこで鍛えてもらえたのかな?とも思います。
32歳で出産し現場を離れることになり、その後は、いわゆる「マミートラック」に乗り、子連れでの転勤や、地域限定職(給料大幅減)への転向、出向など、その都度、悩まなかったわけでもないのですが、乗り越えられたのは、アナ・記者時代の経験があったからだと思うので、私の「笑い転換システム」は、20代で育まれ、30代で強化され、40代で熟成?したのかもしれません。
アナ・記者時代は、視聴者という見えない相手に「伝える」ことを目指して、もがき続けていましたが、「伝わった」という実感を持てたことは、残念ながら、ほとんどありませんでした。
ところが、育児休業後、裏方に回ってからは、コミュニケーションの相手がリアルに見えるようになりました。さらに「マミートラック」に乗った(いわば戦力外通告を受けた)私は、会社ではなく「社会」のために生きようと考えて、ワーママサークルを作って静岡市と一緒にイベントを仕込んだり、息子の成長に伴って、小中学校で読み語りボランティア活動をしたり、あるいは、コーチングを学ぶなど、外に活動の場を求めました。そこでマネジメントやコミュニケーションを学ぶことが出来ました。
会社だけじゃないところで、鍛えていただいたことが、45歳でまさかの管理職になった時に、活きたのかなとも思います。自分が楽しくあれば、笑っていれば、周囲も笑顔になってくれるという経験が、ありがたいことに、積みあがっていったのかなと。
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尊敬する出口治明さんから教えていただいた「ことば」のひとつに「人生の豊かさは、喜怒哀楽の総量で決まる」というものがあります。この「ことば」も、自分のキャリアのあれこれを前向きに受け入れられるようになった、ひとつの大きな要因です。さらに、リスペクトする方々の生き方を、間近で感じるにつけ、皆さん、どんな困難すら「楽しんで」らっしゃることも、私の大きな勇気になっています。そんなご縁が、私の「笑い」の源になっていることも、書き加えておきます。
この夏!アインシュタインと、面白がる(笑)
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